名前赤井英和 あかい ひでかず
別名浪速のロッキー
生年月日1959/8/17
国籍日本
戦績21戦19勝2敗16KO
紹介元ボクサーで現在俳優、タレント。大阪市西成区出身。
私立浪速高等学校、近畿大学商経学部卒。
戦国武将で丹波国の土豪悪右衛門こと赤井直正は彼の祖先であるといわれている。
かつてはバラエティタレントとしての活動を主体としていたが、現在は東京では俳優としての活動が主体である。大阪ではバラエティ活動を継続している。
中学・高校時代、かなりの『ヤンチャ』で喧嘩に負けた事がなく、大阪一帯にその名は響き渡っていたらしい。電車の座席に座っている不良達の足をわざと蹴り回り喧嘩を売ったりしていたが、最後には、不良達は赤井の姿を見ると、視線を合わせないよう大人しく座っていたそうである。
公立高校の併願では住吉高校を受験しており、同学年であったトミーズ雅にその姿を目撃されていた。優等生が集まる名門校の受験会場の中、ただ一人不良丸出しの学ラン姿で受験に来ていたので相当目立っていたらしい。ただし赤井自身受かるつもりは全く無く、シャレで進学校を受験したと後日談で語っていた。このとき出会った二人は、後に同じボクサーから芸能界への道を歩み、やがて友情を築き『ごきげん!ブランニュ』というテレビ番組の司会者として共演することになっていった。
プロになってからの赤井は、当時の日本記録であるデビュー以来12試合連続ノックアウト勝ちという快挙を成し遂げ、その試合スタイルから「浪速のロッキー」という愛称が付いた。
世界タイトル獲得も時間の問題とまでいわれ、試合後のユニークなインタビューのコメントも人気を呼び、ノンタイトル戦ながら全国中継で取り上げられるまでに注目を集めた。
連続ノックアウト勝ちは無論快挙ではあるが、相手選手の選択について無名または格下の選手が多かったこと、所属ジムであるグリーンツダジムでは赤井以降も同じようなマッチメイクをしていたことなどから、当時から現在に至るまでその実力には疑問符もついている。
主な戦歴浪速高等学校入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を 引っさげて、近畿大学進学。
モスクワオリンピックでも日本代表は確実視され た。しかしいわゆる東西冷戦のあおりを受け日本代表の出場辞退(ボイコット)によりオリンピックへの道を断念。学生プロボクサーに転向することが決まり1980年9月愛寿ボクシングジム(現グリーンツダジム)に入門。
1980年9月18日鷹大拳を2RKOでプロデビュー
1982年9月6日トム・シンサノンサクディを2RKOに下しデビュー以来12連続ノックアウト勝利。
1983年7月7日近畿大学記念会館で行われたWBC世界スーパーライト級タイトルマッチでアメリカのブルース・カリーに挑戦。試合前日の記者会見で「7月7日やから7回に倒してパチンコのフィーバーにしたる」と宣言していたが、第7ラウンドでTKO負け。
1983年10月18日新井容日に10R判定勝利で再起戦を飾る。
1985年2月5日世界前哨戦として大和田正春との試合に臨むが、第7ラウンドでのノックアウト負けの後、意識不明に陥る。その後医師からボクサーを引退するように勧告を受け現役を引退する。
1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し俳優デビューを飾る。エンドロールには、名前の隣に「(浪花のロッキー)」のテロップがある。
1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場、その壮絶なファイトを再現。演技派俳優としての第一歩を踏みしめた。
1993年には、裕木奈江らと共に、24時間テレビのパーソナリティーを勤めた。 バラエティ番組にも多数出演しており、タレントしても活躍中である。また、スクーバダイビング関連会社のイメージキャラクターとしてプロフェッショナルのモデルダイバーを勤めたこともある。 次女の沙希はモデル・女優・タレントとして活動している。
獲得タイトル
インターハイ・ライトウェルター級優勝
アジアジュニア選手権ライトウェルター級優勝
公式HP
赤井英和公式ホームページ

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